漫画雑想記二 |
「ヴァンデミエールの翼」(1,2) | ||
アフタヌーンKC講談社 | 鬼頭 莫宏/著 | |
初稿 98/5/28 改訂稿2000/11/3 |
「あ、そうか『自由』なんだ...タイトルと内容の共通点は...」。
最近、改めてこう思った。
考えてみれば遅きに失したことである。私にとってこの漫画との出会いは「表紙を見ただけで面白そうな漫画を適当に買え」という命題の元に、偶然選んだ作品である。その漫画が雑想記リニューアル記念の筆頭漫画として挙げたいくらい「いろいろ考えさせる漫画」だったのだから面白いものだ。
それはともかく、私が「適当に」選んだ理由はいくつかあった。「絵柄」と「天使の少女」、そして「タイトル」。
まず、私は漫画の場合、絵柄がある程度自分の基準を満たさないと拒否する傾向にある。世間では漫画が溢れるが、見てて生理的によく気持ち悪くないなと思うような漫画が結構あるし、そういう漫画はどうも絵から受け付けない。出きる限り綺麗な絵を見たい、そう思うのはなかなか譲れない心情であって、それがまず結構厳しいハードルとなる。もっとも、巷のいわゆるアニメ系の可愛いキャラはOKなので、そういう意味ではそれほど厳しい制限ではなかろう。ちなみに私が絵がいまいち気にくわないのに、かなり気に入った漫画は「寄生獣」しか思い浮かばない。
そういう点では本書の絵の場合、表紙の雰囲気は結構綺麗であり、合格だった。もっとも華奢な感じがして「中身は同人誌みたいに崩れた絵だったら嫌だなあ」という思いもあったが。
次に惹かれた部分は表紙絵が天使の少女だったことである。
天使というのは何故か心をくすぐるものがある。その原因が私の場合、何か淫靡なものを想像させるためだからなのか、宗教的なものも含めて開放への精神を表現しているからなのか、そして私に強い感動を与える宮崎アニメの中に「On
Your Mark」という天使の少女の話があったからなのか、詳しい所は不明である。ともかくも「少女の天使」というのに惹かれたのも原因であるのは否めない。
そして、最後の一点。惹かれたと言うより、気になった点であった。「ヴァンデミエール」。歴史を好む私にとって、それは「フランス革命」を想起させる言葉であったのだ。
知る人は知るであろう、「ヴァンデミエール」とは革命暦で「葡萄月」を表す名である。もちろん、現在の漫画や小説では、登場人物や地名を歴史上の名詞から拝借するなどというのは日常茶飯事であり、それをしたからといって立派な作品とは全く限らない。しかし、世界史の中では私が最も気になっていて、いつかいろいろ読んでみたい「フランス革命」にちなむ名前であるところに、強く興味を持ったのである。
前置きが長くなったが、本書について述べよう。内容は19世紀ヨーロッパに似た世界で、自律人形である少女達の行く末を描いた作品である。本書では他にも「テルミドール」「フリュクドール」などの名が出てきて、フランス革命からもじっていることは間違いないと確信した。だが内容的にはフランス革命に直接関係するものではない。漫画版『風の谷のナウシカ』が、「ナウシカ」の語源となった「古代ギリシャ神話」から全く離れ、それだけで一つの世界を作り上げたように、本書ではフランス革命とは全く関係のない、独自な立派な世界が作り上げられており、フランス革命を想起させることは(最近まで私にとって)無かった。
数々の注釈付きの難しい言葉は、わざとらしく、うっとおしくさえ感じることがある。それよりも心に訴えかけてくるのは、物語のキーワードになるような、「決めの台詞」であろう。何度も読んでいると、作者はこれを言わせたいためにストーリを考えているのではないかと思うほどの秀逸なのだ。
その台詞は物語の中でのみ響く空虚なものではなく、今の我々、いや一般的に語るのは卑怯だ....私、高崎真哉自身にとって重く響く台詞なのである。
ネタバレが重罪なのは分かっているが、敢えて幾つか書かせて頂こう。
「依存の終わり。依存への依存の終わり」
「外に規範を求める限り、喪失感は埋まりません」
「自分でその存在を確認したわけでも その行為を見たわけでもないのに」
これらの言葉に最初から惹かれたわけではない。私が気にいるような漫画、そして買うような漫画は、何度も読む価値があるとみなした漫画であり、何度も読む。その何度も読むうち、それまではストーリに隠れ、そのストーリの中の単に台詞として最初は受け取っていたのに、次第に物語を越えて心にのしかかってきた台詞である。そのような台詞があること自体、私にとって十分に価値のある漫画であったのだ。
友人は一巻をさらっと読み、「ダークだ」と言った。確かに暗い雰囲気がないこともないが、私はそれよりも逆に登場人物達の前向きを感じた。背景は暗い。しかし、それは『風の谷のナウシカ』もそうかもしれず、感じるべきなのは人物達の姿勢、生き方なのではなかろうかと思うし、だからか、ともかくか、作品から暗さはいまいち感じない(もしかすると私が暗め好みなのかもしれん^^;;)。それは二巻目で更に感じる。
最終的には、別個に登場する四人の少女(自律人形)達のうち、二人は死ぬ。それは確かに暗いと見なせるかも知れない。しかし、私に暗さを感じさせないのは少女の死が「虚しくない」からであろう。
死ぬという点では人間の方がはるかに当たり前なことである。そしてこれを限りなく虚しいこととして見ることも出来る。つまり人間を真剣に描けば、そこに虚しさを見いだすことは容易であり、究極的にこの考えを進めると自殺するしかない。人間はこういう「虚しさ」の感情を騙していくか、あるいは虚しくないことだと分かることでしか、生きていけないのである。
本書で描かれる少女達の死が「虚しくない」のは、その少女の死を、自分の生を賭けるぐらい前向きに生きる少年がいるからではあるまいか。そのように思うと人間でも同じことが言える。最終話で死ぬのは人間の方であり、人形の少女の方が生き残る。人間である彼の死は見るからに寂しいものであった。しかしそれでさえ虚しくはない。それは、他の少女達の死を少年達が重く受け取ったように、老人である彼の死を今度は少女が重く受け取めたからである。
すなわち人間も死ぬとき、その死をしっかりと受け止める人がいればその死は虚しいものとはならない、虚しいとは感じないのではなかろうか。
いや、死ぬだけではないのかもしれない。本書に登場する、去りし乳母と残された少年。去りし乳母からの影響を大きく受けた少年は、乳母から大きなものを受け取っていた。彼は自分でそれを知りつつ、誤魔化していたのである。青年になっていた彼は少女との出会いにより、そのことを改めて気が付かされる。
「去る魂と受け取る心」。ふと、そんなものがこの漫画のサブテーマかもしれないと思った。
深く入りすぎた。この漫画のメインのテーマはやはり「自由」であろう。それは少女達の「自由」であり、同時に「少女と出会った少年達の自由」でもある。少年達は、上の言葉を使えば「去る魂」との出会いによって自由へと大きく羽ばたくのである。
最近まで、ストーリと素晴らしい台詞に惹かれて、肝心のことを忘れていたような気がする。そしてふと全体を考えたとき、ようやくタイトルの「ヴァンデミエール」に行き着くのである。それはもちろん、フランス革命の人々が「自由」を求めて、飽くることなく闘ったこととまさしく共通ではないか。本書のタイトルは、やはり安直に、良い雰囲気の名前を借用したのでは無かった。内容に深く関係するようなタイトルだったのである。
ともかく、未だに、なんか読んでしまう、気になる漫画である。