[一切未見の人へ]
[当作品を見捨てた人へ]
[原作コミック評価]
〜美しき絵、切ないストーリ、細やかな描写〜
青字=原作コミックのみ
赤字=アニメ作品のみ
緑字=両者共通
[Vol.1原作比較詳細批評]
原作比較詳細批評
第1話 兄弟、第2話
天体観測
第3話 少年
第4話 人形
第5話 約束
[Vol.2原作比較詳細批評]
[Vol.3原作比較詳細批評]
【アニメーション作品総評】
〜ガンスリのアニメーション作品はなにが優れているのか〜
アニメーション作品「GunslingerGirl」の優れた点として以下のまとめをしておこう。
1.原作の不快感の軽減
コミック版批評で述べたように、原作には人を殺す行為に対する批判性の少なさがどうしてもある種の嫌悪感を抱かせた。すなわち少女達の行う殺人行為よりも、少女達の哀れさに読者の視点を行かせようとする雰囲気があり、それが過敏な読者に上記のような不快感を抱かせているのだと思われる。
しかしながらアニメーション作品では悲哀さの中に人を殺すことへの批判を滲ませており、そうなることで不快感が軽減されている。
あるいは以下のような言い方も出来ようか。
原作に於いては人を殺す場面がどのような雰囲気であるのか、掴みにくい部分があったと言える。すなわち「Gunslinger Girl」において人殺しの場面がどのような意味を持つのか、迷うのである。おそらくこの迷いが、ある者には不快感を抱かせるのだと思われる。
しかしながらアニメーション版には、そのような、見るものを戸惑わせる迷いはない。すなわち第1,2話で特に良く出ているのだが、そこでは少女達が銃を振り回す場面は限りなく「悲劇」として描かれており、音楽の効果も相まって悲しみに満ちたものとして描かれているのである。その描き方自体が「人を殺すこと」について(非明示的にせよ)批判性を持ったものになり、不快感を抱かせにくくなっているように思われる。
アニメーション作品の第1,2話目で漂うのはひたすら「悲哀」であり、人を撃ちまくる爽快さも、鬱憤晴らしの雰囲気も、このアニメーションには無縁のものだ。 |
この場面の前後での悲痛さは圧巻とも言えるもので、ひたすら拳銃を撃つヘンリエッタをジャンとジョゼがモニター越しに見ながら、ジャンが小さく「まあまあだな」と呟くのに対して、ジョゼは答えない。その時の(義体には冷たい)ジャンの呟きですら、哀しみに満ちたものとなっている。
このシーンを代表として、アニメーション作品ではヘンリエッタの境遇に対し、「公社や担当者の手先になること」「手先として人を殺す毎日を送ること」も含めて哀愁感を以て語られており、人を殺すことへの許容も、讃美も、ない。「ない」というよりも感じることは困難であろう。それらの雰囲気がこの作品設定への不快感をなくしているように思う。
2〜5.制作中
【アニメーション版 Vol.1(第1話〜第5話)】
原作比較詳細批評
青字=原作コミック作品のみ/赤字=アニメーション作品のみ/緑字=両者共通
第1話 兄弟(flatello) 第2話 天体観測(orione)
コミック原題:「天体観測」
アニメーション作品はナポリ(と思われる街)を歩くジョゼとヘンリエッタのシーンから始まる(参考:カズくんのオタおた日記の「マリみて・ガンスリのイタリア机上旅行クラブ」)。この場面では「フラテッロ」(兄弟)の言葉の解説が行われるがこれは原作コミックの第二話で解説されたものだ。
・アニメ版第1、2話の構成と、そこで重複するシーン
アニメーション作品の第1話と2話はコミックの第一話を二つにわけ、オリジナルのシーンを加えたものだ。ヘンリエッタの作戦失敗の場面は第1,2話の両者で出てくるため、その描写についてはくどい感じが否めず、多くの人と同様に、私も初めて第2話を見たときには最初がっかりした。すなわち第2話は1話との重複が多く、手を省いていると感じられてしまったからである。
しかし今から考えてみると、原作コミックの1話分を2話にわたってじっくり述べたことにより、ヘンリエッタが義体化され、公社に使われるようになった運命の悲哀感を出すことに成功したと考えられるし、2話に分けたものの元は一つの話である以上、ある程度の重複は仕方なかったと思われる。
・加わった作戦会議のシーンとそこでの示唆
アニメーションでは冒頭の場面に続いてヘンリエッタの失敗する作戦の会議場面になる。原作コミックでは描かれていないのだが、この作戦場面ではヘンリエッタがまだチームワークを利用した作戦に不慣れであることがジャンの発言により表明されており、これがヘンリエッタの今回の作戦失敗の原因を示唆するものとなっている。
なお、このヘンリエッタのチームワークが苦手な部分があるという特性は第9話のエルザとの共同作戦の話でも出てくる。
・一貫する悲哀感
続いてコミックと同様、この作戦とヘンリエッタが義体になる時の描写が交錯して描かれるが、アニメーションで加わった場面として、まずはヘンリエッタが義体化の後に初めて目覚めるシーンと、練習として拳銃を分解するシーンがある。
この描写で何よりも重要なのは、ヘンリエッタの義体のきっかけ、そしてその後の義体化、そして社会福祉後者での仕事の始まりが、強い悲哀感と共に描かれていることだ。
この徹底的に貫いた悲哀感により、コミックで感じられやすい「人を殺すことの悲劇性への無視」が軽減されている。
コミック以上にジョゼが悲痛な顔で一貫していることも少女達と、そして人殺しの仕事に関する悲哀感を強めている。 |
すなわち総評で述べたように、原作コミックでは少女達自身の悲劇が強調され、「少女達が起こす行動の悲劇性」が抑えられている部分があるのだが、このアニメーション作品、第1,2巻では少女(達)の悲劇性と共に、人を殺すことの悲劇性を密着させている。
たとえばそれはヘンリエッタが発砲を開始した時にジョゼが呆然とそれを眺める一瞬のシーンにも現れているし、そしてヘンリエッタが殺しまくるシーンの音楽が決して明るいものではなく、悲哀感に満ちたものであることもその雰囲気を強くさせている。
総評で述べた、ジョゼとジャンがヘンリエッタの練習を哀しげに見つめるシーンもアニメーションで特に加わったシーンであるが、そこも含め、ヘンリエッタの公社の作戦や銃撃練習で、ジョゼが笑ったり、微笑んだり、満足したりするシーンはこの第1,2話にほとんどない。
すなわちコミックでのジョゼより以上に、アニメーション作品でのジョゼは悲哀感を強く醸し出しており、それが少女自身の不幸だけではなく、人を殺す仕事に就き、そしてしかも少女達をそれに使わなくてはいけない状況に苦痛感を抱いている様子を見せているため、鑑賞者としても不快感が軽減されるように思うのだ。
・「条件付け」されたばかりのヘンリエッタ
気が付きにくいかもしれないが、レストランのエピソードはその直前の公社食堂でのシーンから始まっている。すなわちここで(公社に入ったばかりの)ヘンリエッタは紅茶を皿を掲げることなく(無愛想に)飲んでいるわけだが(左)、それを見たジョゼが、彼女に礼儀作法を教えよう、ということでレストランのシーンになるわけである。 一方、トリエラとの「一杯やろう」のシーンでは、現在のヘンリエッタは皿を掲げて飲むようになっている(右)。 アニメーションのレストランでのシーンはコミック版のこの一コマのシーンから生み出されたものなのであろうか。 |
アニメーション作品で加わったレストランでの描写は非常に印象的なものになっている。この場面はレストランに行く直前の場面、すなわち公社の食堂で紅茶を(受け皿を持たずに)飲むヘンリエッタとその姿を何気なく見つめるジョゼのシーンから始まるが、ヘンリエッタが義体になった頃に「無口な子」だったというだけではなく、さらに「普通の子供らしくない」という印象を与える。
アニメーション作品においては条件付けされた少女達は通常の子供らしい無邪気さなどが無くなる、というのがコミックよりも強調されているようで、これは後のエルザの話である第9話などでも仄めかされている。
銃の練習で屋上にいるシーンはほぼ原作にあるものであるが、「ひょっとして妖精かもしれないな」とジョゼが言ってヘンリエッタがはにかむシーンは除かれている。アニメーション作品では前述のようにヘンリエッタが「(条件付けにより?)子供らしくない子供だった」という点を強調しているため、このような反応をヘンリエッタが見せることは考えられず、アニメ化で省いたことは妥当なものであっただろう。
・原作の大切な細かい描写をくまなく取り込み、余計なものは省き...
公社の渡り廊下から始まるヘンリエッタがトリエラに慰められるシーンもほぼ原作通りで、これは第1,2話で重複して語られる。
原作には明確には描かれていないのであるが、アニメーションではヘンリエッタが持っていた紙袋の中には怪我をした際に着ていた服が入っていることがはっきりと描かれている。その視点で原作を読むと確かにヘンリエッタは紙袋を持っており、この設定も原作通りであることが分かるが、このような場面を見つけると原作での丁寧な描き方に感心させられると同時に、アニメ化にあたっては少しの遺漏もなく原作の細やかさを取り入れようとした様子が強く感じられる。
その一方でヘンリエッタが砂糖を多く取る場面は省かれた。このシーンは私・高崎は条件付けの副作用を表す一つだと捉えたのだが、その後、関連する場面もなく(第5話には非明示的には出てくるのだけど)、確かに原作では若干浮いた部分になっており、アニメーションで省かれたのはむしろ自然だったかもしれない。
コミックではこれ見よがしに出てきたメイド(義体かは不明)などはさっぱりいなくなっているのが気持ちよい。
・アニメーション描写技法
最後にアニメーション技法としての面白さについて言及すると、一番圧巻などは第2話の最後の、ヘンリエッタが屋上へ出た瞬間だろう。屋上での重いドアを空け、風に吹かれる少女の上に初めてみた天空の空が輝き、それが回転し、そのままジョゼの姿へと落ちていく。このシーンはコミックでは下の2画面として出てくるが、その間に挟まっているアニメーションのシーンは、星星の景色のすばらしさを非常に印象づけている。
ビルの屋上で星を見に行ったことのある人はこのような描写が非常にリアリティを感じるだろう。重いドア、突然の風、そして星星は満天の空に輝き、目が回るかのようにすら感じる。 |
なお、コミック批評で述べたようにヘンリエッタは昼間に星を見たことを忘れているようで、ジョゼはこれにハッとする。アニメだけを一回見た人は、この時に流れるジョゼとヘンリエッタのやり取りの微妙さには気が付くことが出来ない。コミックと同様にジョゼが目を瞑り、語りかけるシーンは、明るくも切ない。
第3話 少年(ragazzo)
コミック原題:「Love thy neighbor」(汝の隣人を愛せ)
コミック第二話、リコのエピソードである。
恐らく良い意味でも悪い意味でも、この話が読者もしくは鑑賞者に与えるショックは大きいであろう。
アニメーション作品はコミックと異なり、実際にリコが義体前の病気の時のシーンから始まるが、リコの独白(セリフ)はほぼ同じだ。(義体の前の時ことをリコが覚えていることに対しては疑問を感じざるを得ないのだが...)
・大きく加わったバイオリンのエピソード
全体的に無邪気な子供として描かれているリコだが、その無邪気さの原因も実は哀しい。 彼女は身体障害者として生まれ、家族の愛を知らなかったし、そもそもまともに相手にされた経験でさえなかった。彼女が義体となったのは家族が彼女の為を思って決断したことではなかったことが、コミック第一話でジャンが「家族に見捨てられたCFS症候群の全身マヒ患者」と指摘していることで分かる。 そしてジャンも彼女に「家族としての愛」を注ぐ気はない。その彼女はどんな想いでヘンリエッタとジョゼの関係を見ているのだろうか。 |
全体はほぼコミックのストーリー通りだがアニメ版で大きく加わっている部分にバイオリンのエピソードがある。
すなわち、ヘンリエッタがバイオリンを実際に弾くシーンはコミックでは遥かにずっと後、第三巻の第十七話で初めて現れるのだが、アニメーション作品ではこの第3話で現れ、すなわち
が出てくる。
このシーンは両者ともとても印象的だ。
まず最初のシーンであるが、リコはヘンリエッタと異なり、担当者であるジャンから「仕事の道具」としてしか扱われていない。そしてリコは生い立ちの関係もあって、仕事に忠実であり、また生きているだけで喜びを感じている。
どちらかというと無欲な、淡々とした少女として描かれているわけだが、その一方でその他の様々なものを与えられ、またいろいろな体験をさせて貰っているヘンリエッタにどこか羨望の思いもあるに違いない。
ヘンリエッタがトリエラとバイオリンのことについてはにかみながらやり取りするのをリコが見つめシーンと、それに続くリコがヘンリエッタのバイオリン練習シーンを覗き見るシーンはリコのそのような複雑な気持ちを静かに表現している。
そしてリコはエミリオと会い、楽器を弾くことに対して思い入れを抱く。コミックと同様にヘンリエッタとリコの会話のシーンになるわけだが、コミックではこれは2ページで描かれ、彼女らのやり取りは哀しくも印象的なものであるのだが、アニメではそれに加えてヘンリエッタがリコに練習をさせるシーンが加わるわけだ。
このシーンは情緒的な雰囲気を一層盛り立てる。そして重要なのはその音楽のシーンがそのまま、音楽だけは同じままで、映像だけ悲劇的な任務のシーンへと繋がっていく流れになっている点だと思われる。
・効果的に使われるバイオリンの音楽
すなわち言いたいのは、この話では特に音楽が物語を盛り立てるものとして効果的に使われているということだ。コミックでセリフと絵だけで表現していたものを、アニメーションでは音楽というものを極めて前面に出してきたわけである。
絵と文字から作られるコミックと、動画と音声から作られるアニメーションは全く違う表現手法である。よって原作コミックの内容を単に「動かす」だけでは、原作コミックがどんなに優れていても、優れたアニメーションになるとは決して限らない。歴史に残るアニメーション作品は大概原作コミックなど無く(あるいは存在してもかなり無視)オリジナルストーリーであることは、「コミックとして優れた作品」を「アニメーションとして優れた作品」にすることがどんなに難しいかを示しているだろう。 コミックをアニメ化する場合、コミックという表現手法では使用不可能だった「音」ひいては「音楽」というものをどれだけ効果的に取り入れることが出来るかは、優れたアニメーション作品に仕上げる上で極めて重要な要素になると思われる。その点、ガンスリンガーガールはかなり成功しているように見える。 |
一般的な話、コミックのアニメ化にあたっては、その絵を動かして、セリフを入れ、音楽はオマケ程度にしかつけなくても「アニメ化」は出来る。だがそれでは全くアニメーション作品として魅力のあるものでは無くなってしまい、アニメーション作品が作られたと言うよりも単なる「漫画のアニメ化」に過ぎなくなる。
アニメーションという表現手法を取るのならば、主題を描くためにはアニメーションでこそ出来る手法を最大限に生かさなくてはいけない。そしてその考えた結果が、この話(第3話)ではバイオリンの音楽こそがその手法となっているのである。
勿論、そのように音楽が最大限に利用され、また効果を発揮したのは原作のコミックにおいて楽器がキーワードになっていたためであり、だからこそバイオリンの曲がこのアニメ版第3話で使われ、雰囲気を出すのに大きく貢献しているわけだが、しかしコミックではそれほど楽器のことがこの話で強く印象に残るわけではない。だがアニメ化にあたってはまさしく楽器・音楽を一つの中心に持ってき、この話を印象深いものにしている。
・このアニメーション作品は単なる「漫画のアニメ化」ではない
私がこのアニメ化を評価するはこういう点である。すなわち、コミックが雰囲気を、アニメーション作品にするにあたっては何をどのように使ったら効果的になるかを考え込んで作られているのだ。しかも、作品を語る際に中心とするものも独自に見つけだしている。
このアニメーション作品は全話を通じて単に「絵を動かし、セリフを付ける」という安易な「アニメ化」に甘んじなかった。単なるコミックの「アニメ化」ではなく、アニメーション作品としての「創作」なのである。
残りのシーンはほぼ原作コミックに忠実であるが、いくつか分かり易くなっている部分はある。原作レビューで述べたように、野外射撃場でのシーンで、実はマルコーが登場し、アンジェリカのことが触れられているが、原作では両者とも名前は出ず、少なくとも2度以上読まないとその伏線に気が付かないのに対し、アニメーション版でははっきりと「マルコー」「アンジェリカ」の名前が出ている。
それからリコの名前が男の子っぽい名前であることはコミックでは第四話で出てくるのだが、アニメではこの第3話のエミリオの反応として出てくる。
・エンディングの音楽について
エンディングテーマとエンディングアニメーションについて触れておく。
アニメーションにおいてオープニングとエンディングはとても大切なものだ。鬼頭漠宏「なるたる」というコミック作品があり、私は最終話付近を除けばかなり気に入っていたが、その「なるたる」もアニメ化された。
そのアニメ化されたものなのであるが、まずオープニングの曲からがっくりしてしまった。「なるたる」はガンスリよりも、全体的にはある意味暗い作品であるのに、そのオープニングテーマは異様に明るい。「なるたる」はコミック1,2巻目くらいはかなり明るいので、まだ良いかもしれないが作品全体としては全く違和感が出るはずなのだ。
このガンスリはどうか。ここではとりあえずエンディングだけ述べるが、最初見たときはほとんど動かない映像、しかも暗くてよく見えないエンディングに「アニメーション的につまらないエンディングだなあ」と思った。
しかしながら、実際に話を見ていくと、非常にピッタリ合っているのだ。
すなわち、ガンスリは各話の終わり方が哀しみの深いものと、少し明るい気持で終わるものの両者があり、この場合、悲しみのあるエンドの際に、明るいエンディングが流れてしまうのが一番興ざめであろう。このアニメーション作品のエンディング「DOPE IL SOGNO」の哀愁の曲はこの第3話のようなエンドで非常に雰囲気を発揮する。
・衝撃的なこの話のエンディング
すなわちこの第3話の終わり方は原作コミックそのままなのだが、この終わり方ほど、読者・鑑賞者にこのガンスリの作品の性質を強く印象づけるものはないだろう。実際、他の人の感想を見てもこの2話のエンディングに「やられてしまった」人が多いようだ。
原作者・相田裕氏がコミックの第二話にこのような終わり方の話を持ってきたことは、この作品のイメージを形成するのに大きな効果があった。リコはこの話で悲劇的な任務を行うことになるわけだが、見る者に一番ショックを与えるのは、リコが自分の生活に満足していることを述べる部分であると思われる。
すなわち、誰もが上記のようなリコを見て、今回起こったエミリオに関するリコの悲劇に心を痛めるわけであるが、そのこと自体よりも、リコ自身がそれを特に強くショックとして受け止めていない(ように見える)、という所に読者・鑑賞者は先ほどの悲劇以上の、リコの立場の哀しさに衝撃を受けるはずなのである。そして見る者は、おそらくそれを気持の中ですぐには消化できない。
それを受け止めるのに相応しいのがこのエンディングソングなのである。リコが痛ましくもエミリオに銃を向け、銃声のないまま、リコの独白のシーンになり、そしてエンディング。この流れが読者に与える、ストーリーの演出は完璧といって良い。
上のシーンについてもう少し述べておきたい。
リコがエミリオに銃を向けたシーンに関し、コミック版と同様にアニメ版でも銃声が入らなかった。個人的にはこれがまた非常にニクイ演出であると感じるのだ。
一般的な話、言うまでもなく、多くの銃声を聞かせたからといって銃によって引き起こされる死という悲劇が十分に表現できるとは限らない。一発の銃声で十二分な悲劇を表現している映画作品は多いに違いない。
ところがこのシーンでは銃声すらなしで、それ以上の悲劇性が表現されているように思える。心憎い演出ではないか。
なお、2005年にRevo氏によるGunslingerGirlのイメージアルバム
GUNSLINGER GIRL Image Album「Poca felicita」
が発売された(右のもの)。この作品はガンスリのアニメファンならば必携の作品であるが、リコの歌だけは銃声がピコピコ入ってしまって、頂けないと思う。
第4話 人形(bambola)
コミック原題:「The Snow White」(白雪姫)
コミック版3話に相当する、トリエラのエピソード。彼女の出生が若干触れられる話である。
・トリエラのお姉さん的役割が一層強調されるようになったアニメ版
トリエラの性格の中のお姉さん的な役割はアニメーションで一層強調されているように見える。無論、この性格付けは第2巻第八話などに見られるように、コミックでも十分に設定されたことではあるのだが、アニメ版ではより一層感じられるようになっている。 ガンスリンガーガールの原作コミックとアニメーション作品は、互いに補完しあう要素を多分に持っていて、キャラクターの性格付けもその一つである。すなわちヘンリエッタの嫉妬心、トリエラのお姉さん的な性格、エルザの頑なさなどはアニメーション作品の中でコミックよりもアニメーション版で特に強められており、キャラクター達の存在を印象深いものにしている。 |
まずアニメ版では最初にヘンリエッタがクリスマスの過ごし方をジャンにこわごわ尋ねるシーンが加わっている。
しかしこのシーンの主人公は言うまでもなく、そのヘンリエッタを暖かく見守るトリエラだ。というのもコミックではそれほど強く出されていないように思うのだが、アニメーション作品では全話を通じて、トリエラが義体達の中でお姉さん的な役割を果たすような設定となっており、このシーンもヘンリエッタを見守る優しいお姉さんとしてのトリエラを浮き立たせる場面なわけである。
ジョゼから満足の返答を貰ったことを喜々と報告するヘンリエッタに返すトリエラの笑顔は限りなく優しい。
トリエラにお姉さん的な役割を附したことについては、デスクトップアクセサリの解説でもなされているが、アニメではコミック以上にこのような性格づけを明確にしたことは、トリエラの個性を表す上で非常に効果的だったと思われる。
・セリフは分かりやすく
ストーリーはほぼコミックに忠実であるが、セリフが多く変更・追加されている。
まずマリオ・ボッシが述べる、自分の属していたマフィアが行っていた活動内容についてコミックでは「合衆国に『子供達』を輸出していた」と述べ、人身売買であることが明確なのに対して、アニメ版では「子羊たちを輸出していた」に置き換えられた。
一方で最後にトリエラが自身の出身を説明する下りはコミックでは「案外どこかのスナッフムービーにも出ていたのかもね」という分かりにくいセリフが、アニメ版では「私も子羊の一人だったのかもね」という形で「人身売買で取り引きされた子供だった可能性」というのが分かり易くなっている。
「スナッフムービー」とは人の殺される場面が、演技ではなく実際に撮られた映像のことで、特に娯楽向けに作られたものを差すという。スナッフフィルムとも呼ばれ、言うまでもなく悪趣味な猟奇的嗜好品の一つであるが、Wikipediaの記述に依れば実際の存在については疑われているようだ。
それはともかく、だからトリエラの上の台詞の意味を訳せば「親はどこかで殺され、子供の自分は人身売買で売られたのだろう」という意味になる。
銃撃戦の後には出てくるコミックの「緑の血なんか出さないから」というセリフはアニメではない。
・ヒルシャーとトリエラの関係
仕事が終わった後の場面では、ヒルシャーの発言が増えており、彼が決して悪い意味ではなく、トリエラの扱いについて戸惑っていること、戸惑いながらも(冒頭のシーンで描かれているように)なんとか彼女と良い関係を築きたいと言う意図があることを告白するようなセリフが増えている。テディベアを送る習慣になってしまったのも、彼の不器用さからであることがはっきりと述べられている。
それらの雰囲気からすると、コミックよりもヒルシャーとトリエラの関係が柔らかくなっているように感じられ、見る者としてはほっとする。ちなみにコミックの3巻では1巻に比べるとヒルシャーとトリエラの関係は柔らかくなっているように見えるが、これはアニメーションから影響されたものであろうか。
アニメーションという表現手法、それはメディアの性質上、音楽などの効果も相まって、コミックより強烈な印象を与える。
ガンスリンガーガールのアニメの場合、それは悲哀感を強める方向に働いていおり、すなわち、コミックですら全体として(基本的に)「救われない話」であるのにアニメーション化されたものはその印象がより強くなっていると言えよう。 しかしその一方で、「ささやかな心温まる挿話」(「心温まる」とすら言えるか微妙なのだが)が観るものを救ってくれる部分も、印象としては同様に強くなる。 コミック第三話のトリエラのエピソードは、コミックではヒルシャーとトリエラのギクシャクした関係を印象づける方が大きかった気がするが、アニメ版ではむしろ彼らの「和解」「妥協」とも言うべき関係を印象づけるものとなっている。コミック第3巻第十二話で脇役として出てくるヒルシャーとトリエラの描写は、コミック版第三話よりも、むしろこのアニメ版第4話の雰囲気から受け継ぐ方が自然に感じられる。 |
そして最後のシーンではトリエラの一人台詞はほとんど同じであるが、食堂か何かで、ヘンリエッタに「(調子が悪いのは)まだよ」と言いながら明るい声で答える描写になっており、ヘンリエッタしか出てこないコミック版に比べるとトリエラが主人公らしい、そして気持の良い終わり方になっていると言えるだろう。ちなみにここで流れる音楽はガンスリの中で数少ない明るい曲になっており、私は好きだ。
なお、この話ではたびたびアクション場面が出てくるが、アニメでのこれらのシーンは非常にテンポがよい。アクションシーンを、テンポよく、迫力ある形で作れるかはアニメーションという表現手法ではとても重要であり、それが稚拙だと単なる「紙芝居」のようになってしまう。
安易に大量生産される子供向けアニメでは、そういう迫力とは全く無縁で面白みのないものが多々あるし、たとえば「Masterキートン」のアニメーションも(数話しか見ていないが)アクションシーンを筆頭にして全く迫力がない、テンポが乗っていないことにがっかりしたものだ。
私が気になることとして、コミックではトリエラの服装が完全な正装、すなわちコート、スーツ、ネクタイだったのが、アニメ版ではスーツと蝶ネクタイだけになっており、ワイシャツもラフな感じのものになっている。トリエラのコミックでの服のイメージはトリエラの性格の一端を表すもので、この話の土台を支える上でも大事だったと思うのだが、なぜこの設定を変えてしまったのかが分からない。私としては違和感があるのだが。
あと、コミックではリコがトリエラを部屋に呼びに来るとき、「見つけた」と叫ぶのだがこれは明らかにおかしい。なぜなら、テディベアに囲まれながら生理痛に悩むシーンは明らかにトリエラの部屋なわけで、そこにいるのを「見つけた」というのはおかしいだろう。アニメではリコの「見つけた」のセリフはない。
・ヘンリエッタとジョゼに関して
以上、この話のメインはトリエラなのだが、ヘンリエッタ関係について若干述べる。
まずヘンリエッタが生理痛に悩むトリエラに対して「私は子宮もとられちゃったから」と言う言葉が「私はそこもなくなっちゃったから」になっている。当初、これは「子宮」というのがテレビで使われるには直截的な言葉過ぎるからかと思ったが、そもそも「子宮」などというのは少女が気軽に口に出す言葉ではないとの判断からかもしれない。
(ちなみに上のセリフについては「ヘンリエッタへの暴行について」を参照のこと)
それから冒頭に加わった場面であるが、ジョゼとヘンリエッタ、そしてそれを見守るトリエラのやり取りは非常に心温まるシーンであり、見る者は思わず微笑んでしまうのだが、それにも拘わらず、ヘンリエッタと別れた後に見せるジョゼの顔つきは怖いほどに厳しい。
これはジョゼがヘンリエッタに慕われることに対し、常に苦悩の気持を抱いていることを示唆しているだろう。確かにヘンリエッタはジョゼにとって可愛いし、そして自分が拾い上げたわけであるが、彼には彼女を「条件付け」で働かせることに常に苦悩の気持がある、それを表現しているのだと思われる。
私はこのアニメーション作品が、単に「萌え」受けを狙ったわけではないと思うのは、こんな風な場面なのだ。「萌え」受けを狙うだけなら、さっぱりした顔でジョゼに車の運転を始めさせ、見る者を躊躇い無く微笑ませさせるのではなかろうか?。ヘンリエッタに「萌え」の気持を(見る者に対して)安易に抱かせるのを、このアニメーションは(ジョゼにそうさせないのと同様に)許さないのである。
第5話 約束(promessa)
コミック原題:「A kitchen garden」(家庭菜園)
ここで始めてコミックと順序が変更されており、コミックの第四、五話が飛ばされ、このアニメーション版第5話はコミックの第六話(2巻目)であるクラエスのエピソードである。
大きな違いは、コミックではこの話は回想シーンとして語られる部分がほとんどなのに対し、アニメ版では時系列で述べ、その結果、クラエスが公社で果たす役割のシーンも最後になり、分かり易い流れになっている。
・分かりやすくなっている本話
原作コミックにはない場面として、クラエスの条件付け書き換え入院中のラバロの様子が描かれる。 まず、ジョゼはヘンリエッタに対して極力条件付けを使わない、という設定がアニメ版のこのシーンでも使われる。一方で退院したクラエスは書き換えられたようだ。 その後でラバロの苦悩を仄めかすシーンになる。そんなラバロへ向けた課員達の言葉「所詮こんな商売だ。無理矢理続ける必要もねえ...」 ここでも彼らの仕事の悲哀が語られており、哀愁漂うシーンとなっている。このようなアニメ版のシーンは、ラバロのマスコミへの公社情報リークという行為を、コミック以上に納得させるような流れになっているように思われる。 |
分かり易いという点ではクラエスが義体になる前、とても本好きな少女だったというのが、ラバロの思考の中、常に本を抱えながら写っている彼女の姿が一瞬の間に次々と現れることで、1コマだけのコミックに比べて非常に理解しやすくなっている。
そしてラバロが不服に感じていた公社のあり方というのは「公社の義体の少女達への扱い方」であることがアニメ版では明確になっている。勿論、それはコミックでの設定にあったもので、だからこそ眼鏡を渡し、約束するシーンがあるわけであるが、コミックでは速いテンポの中でラバロの意図が若干分かりにくくなっているのに対し、アニメ版はもっとそれを明確にしていると言えるだろう。
それをはっきりと示す場面として、まずヘンリエッタの「条件付け」書き換えに抵抗するジョゼの意向を、ラバロが確かめるシーン、そして愚痴を漏らす場面が加わっている。
「レンジでの事件」の直前にアニメ版ではラバロがヘンリエッタを評して、「むらっけ」があることを指摘し、ジョゼが「条件付けを強めろと言うのか」というのに対して「そうじゃない」とかぶりを振る場面もその一つと言えるであろう。
なお、それにも関係するが、そして退院したクラエスがラバロに会うシーンではアニメ版では「あの子とは仲直り(ヘンリエッタ)が出来たのか」と問い、クラエスがそれに反応出来ないことで、クラエスに対しては条件付けの書き換えが行われたことが仄めかされるシーンが加わっている。
・ラバロの苦悩と意図
話は変わるが、そのシーンでコミック版では、ラバロは記者に会うことをクラエスに漏らすのだが、アニメ版では単に休暇の延長であることを述べるに過ぎず、記者に会う際にも公社に知られぬように細心の配慮をしたことが表現されている。
社会福祉公社の性質から言って、課員のこのような行動は許されるはずもなく、その点、コミック版よりもアニメ版のラバロの慎重さの方が説得力があると言えよう。
ともあれ、ラバロが事故に見せかけて社会福祉公社に殺されたのはコミック版においてすら感じるわけであるが、アニメでは慎重さを期したことが更に暗殺されたことを強く仄めかすものとなっている。
私はこの原作コミックの優れた点として、細やかな描写を挙げているわけだが、アニメ版ではシーンを増やす際にコミック版と同様な細やかな描写が加えられていることが分かるであろう。
ラバロが死んだことをクラエスが知らされるシーンではコミック版よりもアニメ版は悲劇的な描写になっており、トリエラの叫びとジャン冷たい声が痛々しい。
なお、第4,5話を飛ばしたことで、クラエスとヘンリエッタの写真に関するやり取りはアニメーション版では省かれ、また、その直前の部分である、クラエスが涙と共に目覚めるシーンもアニメ版ではない。