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2004/06/24 初版
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Comic Review 
原作コミック相田裕氏「Gunslinger Girl」批評

原作コミックへの批判
〜原作コミックから感じる違和感・嫌悪感〜

 いきなりであるが、原作コミック「Gunslinger Girl」にはどうしてもある種の違和感(場合によっては嫌悪感)を抱かせる要素があるように思う。もしくは原作コミックには素直に「良い作品」と肯定しがたい部分がある。ここでは思い切って、その部分から検討してみることにしよう。

 原作の持っている、私が感じた、あるいはいくつかの場所の批判で見かけた「嫌な部分」とは以下の3つになるように思われる。

  1. 人を殺す大量の描写と、この作品の持つテーマとの矛盾
  2. 「小さな幸せ」の対局として「障碍者(障害者)」「身体障碍(障害)」があるように感じられてしまう点
  3. 以上の2点と、社会福祉公社の設定の甘さ(緻密性の無さ)がもたらす制作動機への不信感

 順々に述べていく。

1.人を殺す大量の描写と、この作品の持つテーマとの矛盾

 「人を殺す」という行為は現在、最も否定されるべき、基本的な犯罪とされている。私は「人の命は地球よりも重たい」などという意味のない言葉は嫌いだし、死刑制度には基本的に賛成だし、自殺は権利だと考えている。それに命の重さは残念ながら(現在の世界では)平等ではないと思う。それでもやはり、人の命を奪うという行為は軽々しく書かれるべきではない、軽々しく書いて欲しくないと思うのだ。

 私はそれほど基本的に漫画やアニメをたくさん見るわけではないので、一般的に人殺しの描写が多いのかは知らない。けれども私は基本的に人を殺すというようなシーンを「ウリ」にしているような作品は嫌いだ。

 日本の各種アニメ・漫画作品の中で「人を殺すこと」はどう扱われているか。

 戦争や冒険を主題とする物語において主人公が敵と戦い、そして彼らに勝利するという流れはお約束のものであるし、それが無ければ「ドラマ」にならないのは事実だ。その中で主人公の前に立ちはだかる「敵」は「人を殺すことは犯罪である」という原則の例外規定とされる。すなわち「敵」は「こちらを殺そうとする悪いヤツ」なのであり、やっつけなければ「こちらがやられる」からやっつけるしかないのである。

 そうでなくても人が死ぬ、殺される、殺された描写を描く漫画は少なくない。たとえば浦沢直樹氏の「Monster」。この作品は大変評判になり、また評価を受けている。私も嫌いな作品ではないが、それでもそこで扱われる死の多さには気になるものがある。
 そのような点があるからこそ、私は「死」よりも「生」を描く「Masterキートン」の方が好きなのだが(「パイナップルARMY」は単なるガンアクションもので数巻読んで辟易した覚えがある)、それでも辛うじて「Monster」が救われるのは「死」を「軽々しく」書いていないということであり、加えて「Monster」の当初の主題には「命の重さ」を語りかける場面等もあった。

 一方でアニメーションはどうか。世界にその名前が知られるまでになった宮崎駿。彼は決して暴力的なシーンや人を殺すことを軽々しく描かない。アニメ作品で言えば「太陽の王子ホルスの冒険」「未来少年コナン」「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」「紅の豚」「もののけ姫」など、彼の作品の中で「人を殺すこと」が全面に出されたり、あるいは無批判で描かれることはまず無かった。
 おそらく彼が一番、人々を殺しているのは漫画版「風の谷のナウシカ」であろう。そして読めば分かるように、その描写は必要なものであった。

少女達は敵の死にはひたすら無感情である。ヘンリエッタは感情的である設定なのだが、死への感情は極端に抑制されているかのようだ。

 くどくどと述べるまでもなく、人を殺すという描写は軽々しく、無批判に書かれるべきではないと思うのだが、ガンスリでは一見して分かるようにそれが大量に描かれている。そして特に最初の部分において、それに対する批判が少ない、その行為に対する感情が少ない



 たとえば第一話で基本的に対テロ部隊という話で始まるが、第2話目の話においては何ら暴力的でない議員が主人公達によって殺され、さらには主人公達の組織を守るべく無辜の人が殺される。
敵のみならず第3者を殺すことに対しても...少女達の不幸を描写する前には殺される側の不幸は取りあえず無視される。
 確かに主人公たちは敵対者を殺して片づけることが仕事の大部分である結果、それらに対して無感情にならざるを得ないというのは理解できるが、その一方でここまで無感情になれるのか、という疑問がどうしても出てしまう。
 義体の少女や担当官の性格は様々であるが、しかし「敵を殺すこと」に対して、さらには「第三者の被害者が出ること」に対しても驚くほど皆が無批判なのである。

 この物語のキーワードの一つは明らかに「幸せ」「不幸」であり、主人公達を取り巻くそれらをクローズアップして、そこを読者に訴えかける一方で、主人公達が殺す敵もしくは無辜の人々の死が周りに引き起こすであろう「不幸」の存在は完全に無視されているのである。



 もっとも、「主人公達が人を殺すことについての道義性」について、作者が「完全無視」をしているわけでは決してない

人を殺すことへの批判はされないわけではない。最初の部分ではあくまで間接的に述べられることが多いのだが...

 すなわち第2話目、トリエラの担当官・ヒルシャーの言として
「うちの子に変な仕事はさせたくないな」
フラテッロ達の補助をするフェッロ達のやりとり
「俺達悪人みたいだなあ」「みたいじゃなくて、実際そうなの」
などの発言は、主人公たちの持つ「敵を殺し、また組織の存続の為ならば無辜の人々の死も厭わない」という冷たい姿勢が本来ならば批判されるべきであることを、別な者達の口から作者が述べさせているわけだ。逆に言えば確信的に描いているということである。

 さらには後続の巻になると、そのような「人を殺す」という行為に対する批判性は強くなる。

むしろ2巻以降、テロリスト側の人間が無関係な者への死を否定する姿が描写されることで、無差別に殺すことへの批判が強く行われ、バランスが取られる

 まず第2巻では「敵」である爆弾テロリストのフランカ達が「無差別テロ行為」には批判的なことが描かれ、彼らの言葉から
「(スペイン広場でテロをしようとしていた)エンリコの馬鹿が捕まって本当に良かったわね」
「ああいう子こそ私たち『五共和国派』がまもるべきものだもの」
という言葉が出る。さらには義体・アンジェリカのエピソードにおいて、人殺しの第一歩である拳銃の使い方の訓練を始めた彼女を見てプリシッラは
「条件付けって怖いね」
とつぶやく。

 さらに第3巻ではその批判が一層顕著になる。

「顔を見られたんだ」「これくらいどうってことないわ」...これは一巻でのジャンのリコへの命令「もし仕事中に誰かに見られたら必ず殺せ」という発言では完全に否定されたことだ。

 義体と同程度に(殺人に対し)無感情な、テロ側の若者ピノッキオが登場する一方で、無関係な少女・アウローラを彼が無情に殺そうとするのを、前述のフランカは強く止めるのである。

 さらに驚くべきは、義体・トリエラが、無関係な少女・アウローラが自分たちとテロ組織の争いの中で犧牲者となる危険性が出た際に「自組織は少女を義体とするために、無辜の子供の犧牲を厭わないのではないか」という不信感さえ担当官に述べるのである。

 これは最初に話が始まったときの「義体と担当官の関係」からすると、かなり外れた行為だ。
 もっともこれは「ジョゼに盲目的なヘンリエッタ」「自由な体を手に入れたことをひたすら幸福と感じ担当官の仕事の道具に徹するリコ」ではなく、彼らと異なるフラテッロ関係を持っていたトリエラだからこその発言と言えるが、だがいずれにせよ、公社が考える「フラテッロ」の間柄としては奇異なことであるはずだ。

 それ以外にも始末屋ブルーノ、チベタン・テリアのニノなどの言動は最初の巻に比べると遙かに「人の死」というものを読者に考えさせる方向に向けられており、最初の頃に読者が抱く可能性の高い不快感はここにおいてかなりのところ和らげられるのではあるまいか。

 それでも、もっとも「感情的」であるはずのヘンリエッタが「条件付け」が少ないにも拘わらず、「敵を殺すこと」についてはリコ並に全く「無感情」な点は、一番の主人公であるが為に気になってしまうのだが。

2.「小さな幸せ」の対局に「障碍者(障害者)」「障碍(障害)」があるように感じられてしまう点

 これについては私も筆が重いが、しかし書かずにはいられないだろう。
 「人を殺すこと」については前項のように、明らかに作者にはそれなりに考えるところがあるようだが、以下の点については少しでも作者に意識があるのかは不明だ。すなわち「身体障害(障碍)」への考え方である。

 第1話で社会福祉公社の名目が「身障者支援事業」にあり、実際、義体はほとんどの場合、身体障碍の身体との引き替えに得られるものという設定になっている。

 特に顕著なのが義体・リコであろう。リコは自由に動く五体を手に入れ、ひたすらそのことを幸福に感じ、それ故に社会福祉公社の仕事には盲目的である。他の義体も、義体になるということはすなわち最低限「五体満足」な身体を得ることが出来る。

 この物語のテーマには明らかに「小さな幸せ」があるのだが、上のような描写の結果、いやが上にもその対局として「身体障碍者=不幸」という図式がイメージされてしまうのだ。

 それ以外にも身体障碍が不幸をイメージさせる描写は、しばしばこの作品に登場する。
 義体・クラエスの担当官ラバロは足に障碍を得て、それが原因で生き甲斐だった軍警察を追われ、その復帰を意図して社会福祉公社に来たという設定になっている。義体達の不幸と比べるのはともかく、彼にとって「足の障碍」は不幸以外の何者でもなかった。
 義体・アンジェリカの担当官マルコーは任務で視力を(おそらく若干だと思われるが)落とし、それを理由に内務省の実戦部隊を解任された。彼にとってそこはやり甲斐のある職場だったようだから、彼にとっては不幸の元だったに違いない。

 第3巻で出てくるダンジェロ女史も足を患っており、社会福祉公社の彼女に説明する義体の社会貢献に身体障碍の克服が挙げられている。

 これらのように、この作品では嫌でも「身体障碍=不幸」という図式を意識させざるを得ないのである。

 なぜこれについて私が気になるのか。
 私は所謂健常者と呼ばれる部類に入り、せいぜい極端に視力が悪い(自業自得なのであるが両眼とも0.01〜0.02程度だと思う)。眼鏡がなければまさしく障碍すなわち生活に差し障りがある。
 しかし眼鏡があれば車の運転も出来るわけで(おそらく)幸いに不便する事はない。

 そんな立場の私が、なぜ身体障碍の話に拘るのかと言えば、まずはここの記述を見て頂くのが早かろうと思う。(大変残念ながら私がそれを考えるきっかけになった日本語のサイトは閉鎖してしまった。とても惜しいサイトだ.....と思ったら復活してました、喜)
 すなわち、私もつい最近まで、身体障碍者に対しては非常に同情と憐憫の気持ちを懐いていた。彼らが健常者からのそういう感情を嫌がるか否かはともかく、そう思う自分・私があったのだ。
 だがそこで紹介されていたサイトを見、生まれながらにして様々に「奇形」を持った人々が、私の考える同情や憐憫などをものともしない、パワーと魅力を持っていたことを知らされ、頭をガツンと叩かれた、目から鱗が落ちる思いを懐いたのである。

 その時の衝撃は大きかったし、むしろ今でもガンスリよりも「幸福と不幸」の問題を真剣に考えてしまう。はっきり言えば、身体障碍者の人々を一律に同情するのは健常者の傲慢・盲目以外の何ものでもないと思うようになったし、また健常者が彼らに比して何を持っているというのかという思いや、ましてや幸せの尺度を一方的に両者で比較することの無意味さを感じされられたのだ。

 そのような経験をした私にとっては、「幸せ」というのが明らかに一つのキーワードであるこの作品で、「身体障碍(身体障害)=不幸」という図式があるように見えることに強く違和感を感じるのである。

 ちなみに、ヘンリエッタが一家殺害と暴行に遭ったという事実(注「ヘンリエッタと暴行」)は、私は不幸以外の何者でもないと断言する。そのような被害に遭い、自殺を望むヘンリエッタに対しては、これを憐れまずに誰がいられよう。私はそのような「被害」に遭うことですら、他人からは不幸と決めつけられない、と言いたいのではない。
 また、リコが自分の生い立ちを不幸と思っていたのならそれも否定するつもりはない。
 問題なのは「身体障碍=不幸」というステレオタイプ的な図式が前提とされ、その上で「幸せと不幸」というものを考えさせるところに、どこか薄っぺらさを強く感じるのである。

 ちなみに条件付けをさせられた場合、以前の記憶はほとんど無くなるはずなのに、第2話でリコははっきりと以前の状況を覚えているような書き方がされ、それがリコが社会福祉公社での仕事に満足している部分に繋がっている。これが設定の甘さなのか、あるいは単にリコの生い立ちを自らの口から述べさせただけで、リコにはもはや前の記憶は明確に残っておらず、ただひたすら、そのような義体前の状況がリコの義体後の中、無意識の中で反映されているということなのかは分からない。

3.以上の2点と、社会福祉公社の設定の甘さ(緻密性の無さ)がもたらす制作動機への不信感

 以上、全体設定において矛盾的に思われるところ、あるいは違和感・嫌悪感を感じさせる部分について述べてきた。まとめると

になるであろうか。
 最後の「社会福祉公社の設定の甘さ」であるが

などが指摘できよう。

 以上のような要素による違和感・嫌悪感が決定的にマイナスになってしまうのは、当作品の場合、(絵的にも内容的にも)魅力的な少女達が登場し、加えて、あまりにリアルな銃関係の描写により、

結局この作品は、可愛い少女と精密な銃器を描きたいが為に、安易に世界観を設定しただけではないか

という不信感を起こさせるからだと思われる。



原作コミック評価
〜絵の美しさ、丁寧なストーリ記述、描写の細やかさ〜

 前節では相田裕氏の原作コミックを読んで違和感を感じる部分をベースにして批判的な観点から述べたが、肯定的な評価をベースにして述べたいと思う。

  1. 絵の美しさ、そしてそれとリアルさとの調和
  2. ストーリー
  3. (社会福祉公社の設定の甘さを除いては)全体設定の緻密さ
  4. 描写の細やかさ

1.絵の美しさ、そしてそれとリアルさとの調和

相田氏のイラストは美しい。銃器や小道具、そして少女も...
 まずは著者の絵が持つ素晴らしさを素直に認めたい。特にカラーイラストが持つ「美しさ」は絶賛に値する。氏の絵柄は「かわいい」というよりも、もはやそれを越えて「美しい」のである。

 私はコミックをまともに読むようになったのは高校を出てからだった。私の時代はファミコン世代であり、コミックは若者そして大人にとっても身近な娯楽になっていく世代に育ったが、私が唯一読んでいた漫画は「ドラえもん」で、それ以外、ほとんど漫画とは縁のない生活だった。その代わり、比較的私は本好きだったのである。そのせいもあるのだろうか、現在でも他の人よりも漫画を読むとは言えず、しかも極めて好みが激しい。

相田裕氏の描写は基本的に極めてリアルであり、義体の少女達を除くと人物描写でデフォルメしている部分は少ない。「漫画」よりも「劇画」という言葉すら思い起こさせる。無論、周りの風景や小物を描く部分もひたすらリアル嗜好であり、そしてそれらは美しいキャラ描写と調和している。
 その条件の一つに絵の「まともさ」を強く要求する。これはアニメーションに対しても同じだ。現在世の中には崩れたような絵で描かれた漫画、美的とはほど遠い漫画が溢れているが、基本的に「均整の取れていない」絵柄は生理的に受け付けないのだ。

 もっともこう描くと何やら美術的な漫画しか受け入れないように思われてしまうかもしれないが、それほど厳しいつもりはないし、結構慣れた部分もある。
 それにいかにも漫画的な絵も全然OKで、何しろ私の大ファンなのが竹本泉先生なのでその辺のガードは緩い。具体的にはたとえば浦沢直樹氏、皇なつき氏、岡崎二郎氏、魚戸おさむ氏などの作品が絵的に好きだ。(アニメーションも含めたデザイナーでは宮崎駿氏、貞本義行氏とか)

 相田裕氏の話に戻ろう。Gunslinger Girlを読むと素人でも相田氏がガンマニアであることは容易に想像がつく。
 私は銃や武器などには関心がないのだが、目的が「人を殺す」という点で究極の実用品である武器や兵器が、しばしば或る種の、あるいは普遍の「美しさ」を持つというのは事実であると思う。そのような銃の美しさに拘(こだわ)る著者なのだから、出てくる少女達の絵が「美しい」ことは当然とも言えるし、実は全体的にとてもリアルな絵柄になっているのである。
 そして「全体的なリアルさ」「少女達の美しさ」「銃器の美しさ」がコミック全体として調和しているのは注目されるべきであろう。


2.ストーリー

 ストーリーに関しては細かく評論する必要はあるまい。この作品に共感を示す人々の多くのが、このストーリが醸し出す「幸せの意味」「哀しさ」「切なさ」を感じている。

 ちなみに前節は基本的には批判ベースで書いたものの、そこを読んで頂けば分かるように、相田氏は嫌悪感・違和感を抱かせてしまう可能性のある部分に対するフォローをかなり行っている
 すなわちストーリーの中で批判されるような要素に対しては、所々で主に主人公以外の登場人物達に語らせる言葉により、嫌悪感を和らげる措置を取っており、それは続く巻(2巻、3巻)になるほど顕著になっているように感じる。これも評価されてしかるべきであろう。
 そして私はその点で更に今後の続刊を強く期待しているのだ。

3.(社会福祉公社の設定の甘さを除いては)全体設定が緻密であること

 前節で批判した社会福祉公社の設定の甘さを除けば、全体の世界観・設定の構築はとてもしっかりしている。

 この作品は、謎を広げて「お楽しみはこれからこれから」という漫画ではなく、秘密めいた舞台裏はさっさと読者に見せてしまっており、実際各話も一つ一つがそれなりに完結している。
 そのためか「薄っぺらい世界観」と感じてしまう人もいるようだ。

 一般に物語の語り方には2つある

 すなわち一つは謎を少しづつ出しながら、次がどうなるのか、何が起こるのか、何が起ころうとしているのか、何が起こったかを期待させながら、それで話をグイグイ引っ張っていくパターンだ。

 参考に挙げると、コミックでは浦沢直樹氏の「Monster」「20世紀少年」、宮崎駿氏「風の谷のナウシカ」、岩明均氏「寄生獣」、鬼頭莫宏「なるたる」などなど。
 アニメーションでは庵野秀明氏「新世紀エヴァンゲリオン」「不思議の海のナディア」、宮崎駿「未来少年コナン」などなど.....

 それらのパターンの魅力は、言うまでもなく次がどうなるのか、どのようなことが明らかになるのか、どうなっていくのか、それらがドキドキしながら期待される点だ。世界観全体も徐々に明らかになることが多い。
 「新世紀エヴァンゲリオン」の次回予告で視聴者を誘う葛城ミサトの「この次も、サービスしちゃうわよん♪」というのは、無論一話の中での面白く作ることへも期待させるものだが、それよりは次の回へ次の回へと引っ張っていくストーリ展開に引き込むことを象徴している次回予告と言えよう。

 このパターンの場合、謎を増やせば増やすほど、世界観がしっかりしているように読者に思わせるが、終わり方へ向けての流れ、もしくは謎の種明かしがその作品に対する賛否の大きな影響を与え、だから終わり方への流れが素直でなかったり、破綻を感じさせるものであると、全体への批評は厳しくなったり、賛否両論が激しくなる。実際、大きく広げた風呂敷が閉じられぬまま、破綻してしまったように見える場合がしばしばある。

 だがその一方で、早くから世界観の全体をほぼ見せてしまい、その後、その世界観の中で起こるエピソードを淡々と書いていくパターンもあるのだ。

 具体的なコミックとしてはは浦沢直樹氏の「Masterキートン」、魚戸おさむ「家栽の人」、鬼頭莫宏「ヴァンデミエールの翼」、久保キリコ「いまどきのこども」、佐々木倫子「動物のお医者さん」などがある。私がファンである竹本泉の新しい作品は専らそれで「さよりなパラレル」「てきぱきワーキンラブ」などなどなど。

 この場合、多くの話の全体で世界観を構築するのではないから、一見世界観が薄っぺらいように見えることもあろう。だがそれは上のようなパターンの物語にはある種必然的なものであり、そのようなパターンの物語の評価は「各話個々の世界観」「各話の世界観の矛盾の無さ」「ストーリ自身の良さや雰囲気」に基づいてされるべきであると考える。

 言うまでもなく、このGunslinger Girl(ガンスリンガー・ガール)は後者すなわち早くから世界観を見せてしまい、後はストーリ淡々を語っていくものであり、よってこの世界観を薄っぺらいと見るべきではないと思う。
 むしろ、前述したように、社会福祉公社の設定を除けばしっかりした統一のある世界観になっていると思われ、さらには次に述べる各話内・各話間での描写の細やかさはむしろ設定・世界観の深みを感じさせるものではなかろうか。

4.描写の細やかさ

 特に強調したいのは相田裕氏の描写の細やかさだ。社会福祉公社の設定が説得力に欠ける一方で、細かい描写について実に心憎いものがあるのだ。

第一話で砂糖の味を感じなくなっていることが述べられるが、第5話でさりげなく描かれているたくさんの砂糖...

 たとえば副作用の大きさは第1巻ではあまり語られず、強く述べていくのは第2巻以降である。しかしながら第一話の段階で、ヘンリエッタは甘さを感じにくくなっていると述べるシーンがあり、これは(おそらく)条件付けの副作用を暗示させるものだし、さらにその言葉は第1巻4話の中でヘンリエッタが入れる紅茶への砂糖の袋をいくつも開けることにさりげなく繋がっている。



 第4話でヘンリエッタが貰う日記とカメラは、言うまでもなく記憶を無くしていく副作用を配慮したもので、その伏線として第一話でジョゼが望遠鏡を見せる際に「私 星を観るのは初めてです」という言葉から、金星のエピソードを忘れていることに気が付くシーンもある。

ここでのジョゼの驚きはずっと後の記憶障害という副作用の話を知ってこそ理解できる(ってここは私も指摘されているのを読むまで気が付かなかったのだが....汗)

 金星を見たときのことを忘れている、もしくは忘れかけているのは、その時に教わった「良い仕事は全て堅実な作業の積み重ねだ」という言葉を、第5話でどこで聞いたか思い出せないことにも繋がっているのだ。

 クラエス、アンジェリカの話が出てくるのは第2巻なのであるが、彼らの伏線は第一話、第二話から出てくる。
 第一話でクラエスは本を読んでいるシーンから始まり、「いいんじゃない?『若者よ 若いうちに愉しめ』よ」と述べたことにトリエラが「なにそれ『誰の言葉』?」と聞いているけれども、これはクラエスが本好きの少女であることを印象づけるもので、それが2巻のクラエスのエピソードに繋がっていく。
 第二話でアンジェリカの担当官であるマルコー(ただしアンジェリカもマルコーも名前は出てこない)はヒルシャーに向けて「義体の調子が悪い」と述べており、これは第2巻のアンジェリカの各種エピソードに繋がっていく。

 これを見れば分かるように、相田裕氏はおそらく第1,2巻までは連載開始の時点でかなり綿密に世界観とエピソードをを作っていたはずで、おそらくだからこそその部分が早々にアニメ化されたのであろう。

 2巻以降も同様で、第2巻7話ではテロリストの中でも良識派であるフランカが登場し、無差別テロを嫌悪するシーンが出てくるがこれは第3巻でピノッキオの話の中でメインの話に繋がっていく。一見、1,2巻の中では完全に独立しているように見える第9話(ウフィッティ博物館とリコ)の話だが、そこで出てくるクリスティアーノは第3巻で重要な人物として登場する。

 第3巻では第12話の万華鏡の話が17話でうまく繋がっている。

人形を触っているのを見られたことを恥ずかしがる、トリエラの何気ない仕草...その後、フェルミに対して大人びた様子を見せながら応対しているだけにこの一瞬の描写は微笑ましい。ガンスリではこのような描写が多々ある。

 以上のような離ればなれの話を矛盾無く自然に繋げていく相田裕氏の力量はかなりのものと感じる。

 話が離れていてもこのような感じなのであるから、一話もしくは連続している話の中で散りばめられた描写の細やかさは言うまでもなく、私のように注意力のない人間は何度も読んで、その細かさに気が付かされるのである。



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